昆布の歴史

れは、縄文も末期のことです。

 当時、稲作と前後して中国の江南地方から船上生活をし、漁労で暮らす海人族 (あまぞく)が、日本に渡来しました。

 彼らは島をとりまく豊かな魚や貝類とともに様々な海藻を採り、まだ塩を作る手だてを知らなかった当時に貴重な塩分補給源として、内陸の民との交易や支配者への献上品として用いました。

 やがて最初の国家、大和朝廷が成立し、奈良、平安時代になると、海藻は、米や魚介類と並ぶ重要項納品となり、人々の記録にも残るようになります。

 そして、昆布が私たちの前にはっきりと姿を見せるのもこの頃からなのです。

 平安朝前期、延長8年(930)源順が編纂した『倭名類聚抄』に紹介された海藻は19種で、漢名と和名をあわせて記していますが、その中で昆布は「比 呂米、衣比寿女」の万葉仮名をあてられています。

 この「ヒロメ」には「広布」、「エビスメ」には、産地が蝦夷地であるところから「夷布」という和製文字も工夫され、当時はどちらの文字も使われていました。

 ただ、「昆布」という現在の名前の由来は、どうもはっきりしていません。

 一説ではアイヌ人が昆布を指すときの「コンプ(KONPU)」という呼び名が中国 に渡り再び外来語として日本に入ってきたのではないか、とも言われています。

 というのは、唐書『渤海伝』に、「俗ニ貴ブ所ハ南海ノ昆布」とあり、この 「渤海」とは日本海の北の彼方、中国東北地方にあった国で、日本とは、奈良時代初期より二百余年、交易を続けてきたといわれているところから、アイヌ 語の「コンプ」が渤海に渡り昆布の字を得た後、時の留学生たちによって逆輸入されたのかもしれません。

 ちなみに、「コンブ(konbu)」の漢字は、日本では「昆布」と書きますが、漢字の本家、中国では「昆布」というのはワカメのことをいい、昆布のことは 「海帯」といっていたことが『本草綱目』という昔の書物に出ています。

 また、今から2000年前、秦の始皇帝が徐福に命じ東海の蓬莱島へ求めたという不老長寿の薬 は、実は昆布だったという説もあります。

 諸説様々の昆布ですがこれらの説の真偽はさておき、この時代、昆布が中国において大きな価値を持っていたことは確かなことで、それはまた、当時中国を先進の国として仰いでいた日本における、昆布の価値にも通じると言えるでしょう。

 また、それ以上に、現実的な面でも、はるか蝦夷地の付近でしか採れない昆布 が、貴重な産物として朝廷への貢物として都へ送られていたことは容易に想像できることで、やがて宮中でも、食物としてだけではなく、縁起物として尊ばれる存在になってゆくのです。